青春売買ホテル
 
青春書簡

茜と虎子の青春談義

   
  最新書簡 2005-8-29
   
  2005-03-17  虎子から茜へ

ところで質問。
ズバリ茜は青春をどう捉えている?
青春を売ってしまいたいと言うときもあれば、
青春を楽しんでいるようにも見える。
どちらの気持ちが強い?
もし青春を早く脱したいと思うなら、その先にある「青春でない時」というのはどういうもの?
   
  2005-03-19  茜から虎子へ

色んな考えがあります。
「青春を過ごしていない人間はいい大人ではない」(うろ覚え)なんて言葉を思い出します。
これは榎本ナリコが言ってたんだが、彼女の著作の「センチメントの季節」っての、性をテーマにした、漫画はまさしく、なんか青春を売ってるって感じ。
素敵な大人になりたいから、青春は必需不可欠な感じだけど、いまいち私が青春中という実感がない。
それは何より、学校へ行かなかったから。
そこで、一般の子がそこでエンジョイするはずの学校を辞めた。学校へ行かなかった行為が青春を売っている。ような感じだけど、学校だけが青春する場ではないと思う考えもある。
そもそも、自分という年齢の子が、曝け出すように書き、公表するのは、売ってる行為じゃないかなーと。
「今を楽しむ=青春」
どっちかっていうと、楽しみたいタイプかな。私は。実は自分の中の憎しみも宝物。

その先にあるものは…なんだろう…私に何が待っているのか。
求めて、敗れた愛とか。
輝かしい名誉とか。
そんなことを想像してるけど、きっと、自分が愚かと感じること???
何か確信的なものが待っていると思ったり。どうなんだろう。
大人になるってわかりません。
ねー。
   
  2005-03-28  虎子から茜へ

> 学校へ行かなかった行為が青春を売っている。
および、
> そもそも、自分という年齢の子が、曝け出すように書き、公表するのは、売ってる行為じゃないかなーと。
がなかなか想像しない回答だった。
「青春を売ることが青春」とも受け取れる。
「売春」だね。
身を切る感じがとても臨場感があってよい。

そして、
> その先にあるものは…なんだろう…私に何が待っているのか。
> 求めて、敗れた愛とか。

私が思うに、それもまだ「青春」だ。
青春後期の味わい。私にも近しいところ。
もし、
> 輝かしい名誉とか。
が得られたら、実を伴って穏やかに青春は終焉を迎えるけれど、
それすらなく青春が終わるときもある。
何も残らず。去年の私がそうだった。
だから、青春の残りがあるうちに結婚したかった、と思った。
   
  2005-03-29  茜から虎子へ

>「青春を売ることが青春」とも受け取れる。
>「売春」だね。
>身を切る感じがとても臨場感があってよい。

なるほどなるほど。
ところで、私は身体を売れなかった。
男と遊んでたけど、売った事はなかった。
安い値で売るのが、どうしても自分のプライドにうけつけなかった。
私は身体を売るなら、世界最大価値がほしかった。
同時に安い値で売っても、それにハマって、自分の性欲を満たし、そしてその価値に寂しさが溢れるのが怖かった。
男が怖かった。
それから、なにより馬鹿な女にはなりたくなかった。
でもやってみたいという行為、売春。
書く事で自分の裸が演出され、そして、「私は作家と生きた」と言われるなら、本望かもねい。
私らしい、売春。

ところで、私は青春は14〜高卒までのものと思ってました。メインとして。
やっぱ盛りだからかしらー…?
実は、青春の行く末が、結婚だと思ってました。実は実は。そうゆう自分の人生の妄想をくわだててました。
ひとり。だということに気付くのかしら。
私は、本当は誰か側にいる!というハッピーエンドを自分の中で妄想してました。
太宰の「大人とは、裏切られた青年の姿である。」ますます身にしみる発言です。
もしよかったら、詳しく聞かせてほしいところ。
   
  2005-04-05  虎子から茜へ

> ところで、私は青春は14〜高卒までのものと思ってました。メインとして。
> やっぱ盛りだからかしらー…?

それはただ定義の問題だね。
高卒までというのも一理あるけど、ならば大学生の日々は何と呼ぶ?
やっぱりそれも青春と呼ぶにふさわしいものではないかな。
もう終わりだと思っても続いてしまうのが青春。
青春は意外と長い。長いから苦しい。
そういやモラトリアムという言葉は今はもう使わないのかな。

> 実は、青春の行く末が、結婚だと思ってました。実は実は。そうゆう自分の人生の妄
> 想をくわだててました。

茜にはまだその可能性が残っている。でもそこに辿り着かないと、
> ひとり。だということに気付くのかしら。
気づきますね。
時期を過ぎるとたとえ結婚できても一人。夢は二度と見られない。
そして、
> 太宰の「大人とは、裏切られた青年の姿である。」
「裏切られた青年」と自分を定義できるのも、青春の残り香があるうち、かな。

太宰の言葉は美しい。
太宰は美しい言葉で青春を永遠のものにしたと言えなくもない。
いつか私が書いた、
『美しさを失った瞬間の自分を「美しかった私」と形容するなら、失われた美しさは華やかに想起され、「私」のすぐ後ろを彩るかもしれないが、5年も美しくない状態を続けたのちに「美しかった私」と言ってみたところでその言葉は輝かない。美しいか美しくないかという比較すら意味をなさずに、ただ「(美しくない)私」がそこにいるだけとなる』
という言葉と照らし合わせてみて。

私が一言で青春の終わりを表現するなら、
「自分の人生を人のせいにできないと気づくこと」
となる。覚えておいて損はない。
そして茜が終わったときに、私の見解が正しかったかどうかを教えて欲しい。
   
  2005-04-07  茜から虎子へ

>高卒までというのも一理あるけど、ならば大学生の日々は何と呼ぶ?
>やっぱりそれも青春と呼ぶにふさわしいものではないかな。
>もう終わりだと思っても続いてしまうのが青春。
>青春は意外と長い。長いから苦しい。
>そういやモラトリアムという言葉は今はもう使わないのかな。

なるほどね…
しかし、大学に行かずに社会人になればどうだろう。

モラトリアム[moratorium]
(1)戦争・恐慌・天災などの非常時に、社会的混乱を避けるため
  法令により金銭債務の支払いを一定期間猶予すること。支払い猶予。
(2)知的・肉体的には一人前に達していながら、なお社会人としての
  義務と責任の遂行を猶予されている期間。
  または、そういう心理状態にとどまっている期間。
(3)実行・実施の猶予または停止。
  多く、核実験や原子力発電所設置についていう。
大辞林第二版より

やっぱり、青春に学校というものは外しても外せないものかと考えてしまう。
しかし、それはつまり、「何かを学ぶ」というのが原点として、青春ですね。

>>実は、青春の行く末が、結婚だと思ってました。実は実は。そうゆう自分の人生の
>>妄想をくわだててました。
>茜にはまだその可能性が残っている。でもそこに辿り着かないと、
>>ひとり。だということに気付くのかしら。
>気づきますね。

青春の行く先は、失望か希望かですか。
これには名前をつけたほうがいいと思う。
適当に名前をつけたけど、青春の悲しくか嬉しくか素晴らしくかその終わりの瞬間を
「青少年の望春」と呼んでみる。
望春とは、辞書を引いて調べたんだけど、「春の景色をながめること」らしいです。

んー…ちょっといまいちかな。。

>時期を過ぎるとたとえ結婚できても一人。夢は二度と見られない。
>そして、
>>太宰の「大人とは、裏切られた青年の姿である。」
>「裏切られた青年」と自分を定義できるのも、青春の残り香があるうち、かな。

夢は未だに持っています。
やっぱりそれは明るい夢でありますが。
その過程で自分が堕ちて堕ちていくというのもあります。悪魔で過程でね。
「不幸は美しい」という定義がまだ私の中であるのです。
そして、自殺も美しい。まあ、ケースバイケースですが。
でもまあ、死にたいヤツは死んでいけばいい。本当に生きる希望のない人はね。
「弱いヤツ、馬鹿なヤツ」と思うだけです。私って冷たい人間。
そして、青春しているときは、もしかして、
人生で一番死にたくて生きたい時期かなっとちらっと思いました。私だけかな。
生命欲、自殺欲に溢れているのです。私だけかな。
でも、私はとにかく生きたい。
とにかく欲に溢れている時期。あれもほしい。これもほしい。すべてほしい。私だけ
かな。
しかし、人間の作った社会はルールを作った。
可能性は溢れいるが、器用に生きなきゃいけない世の中になる。
社会があって、青春があるのか。そうか。
でも、今の世の中、馬鹿でも生きていられるね。

>太宰の言葉は美しい。
>太宰は美しい言葉で青春を永遠のものにしたと言えなくもない。

そうなのよーーーーーきゃーーーーだっざいーーーー(狂

>いつか私が書いた、
>『美しさを失った瞬間の自分を「美しかった私」と形容するなら、失われた美しさ
>は華やかに想起され、「私」のすぐ後ろを彩るかもしれないが、5年も美しくない状
>態を続けたのちに「美しかった私」と言ってみたところでその言葉は輝かない。美し
>いか美しくないかという比較すら意味をなさずに、ただ「(美しくない)私」がそこ
>にいるだけとなる』
>という言葉と照らし合わせてみて。

では、「(美しくない)私」とはどんなものか。
美しさ。
それが人の全てなのでしょうか。
美しい人はみんながみんなではないけど、大抵は魅了される。
まあ、他人が気付かない美しさを持ってる人もいるが、わかる人には魅了される。
太宰にも言葉の美しさがあった。
そして、太宰の憂いも美しい。
私は憂いも美しいと思うよ。
だから太宰はモテた。

虎子さんの「(美しくない)私」には何が残っているのでしょうか?
存在。だけ?

今、自分は美しいと思う。
なんでかって、私、ナルシストですから…というのが十分な理由だ。
あと、年齢的に一般的に美しいと言われる時期だからだ。
ところで、私は18になったのよ。昨日。
色んな人に祝られた。
しかし、18になった日の終わりは龍との「最後のセックス」だった。
まあ、お互い嘘つきだから知らないけど。
男を誘う私は、私らしい、可愛さがあった。
これは自分では美しいと言いたいが、言っちゃいけない気がする。
ホテルに行く際、
「あたしね、将来すげえ作家になって、龍のこといっぱいいっぱい書いてあげるね」

龍は笑ってました。
17から18になっても、これは変わらなかった。
誰かを求める感情は変わらなかった。
まあ、すぐには変わるわけないんだろうけ。
私は書き続けることで、自分の美しさを保ちたい。
青春が終わっても。
人間としての美しさを保ちたい。
そして、「最後のセックス」のことをネットの友人Rに話したら、
「ずるい女ね」と言われた。
私は自分で自分のことを「愚かな女」と言った。
それでも私は美しいと思う。
やっぱり男に求められるから。

青春。美。恋。そして愛。
これが何か自分の中のキーワードだと思う。やっぱり愛なのよね。


>私が一言で青春の終わりを表現するなら、
>「自分の人生を人のせいにできないと気づくこと」
>となる。覚えておいて損はない。
>そして茜が終わったときに、私の見解が正しかったかどうかを教えて欲しい。

これは実感がないとわかんないだろーな…
でも、大人って感じってゆーのはわかる。
自律だね。
(p.s.↑なんか説教臭いこと書いちゃったな〜とあとで反省 by虎子)
   
  2005-04-13  虎子から茜へ

さて、茜のこの前の元気っぷりを見て、
学校あっての青春、とかいう前提を云々するのはあんまり意味ない、と思った。
私だって社会人になってからも青春できてた時があったし。
茜自身も今が青春! と認識しているようだし。
青春を定義する外的要件はない、己の認識如何で決まる、が結論かな。


> 青春の行く先は、失望か希望かですか。
> これには名前をつけたほうがいいと思う。
> 適当に名前をつけたけど、青春の悲しくか嬉しくか素晴らしくかその終わりの瞬間を
> 「青少年の望春」と呼んでみる。
私はもっと単純に「亡春」としてみた。
青春を亡くしたその後の状態。感情は込めていない。
失望も希望もない。
ただの状態。
それでいい。

> 「不幸は美しい」という定義がまだ私の中であるのです。
その定義は私の中にもまだある。
でも美しくない不幸というものもある。どうしようもない貧乏とか。
あるいは不幸に酔うことができないということもある。
今まさに結婚しようとしているときに、
結婚相手と出会ってしまった不幸を述べることが難しい、とか(私のことだ)。
そういう意味でも、美しい=青春から遠ざかる私。

今、「美しい=青春」と書いたけど、
私がここで言う「美しい」は青春しているかしていないか、
言い換えれば、自分に酔うことができるか、ナルシストでいられるかどうか、
ということだ。
一般的に美しさというのは、容姿とか、人格とか、他人が決めるものだと思う。
でも青春中の美しさは本人が決めることができる。
青春中の輝きというのは、私は青春してる、私は美しい、という自尊心が他人に影響して、
外から見ても美しく見えてしまうもののように思える。
若さの尊大なところに納得させられてしまうというのか。
事実、茜はとても眩しい。

青春過ぎたナルシスト、ってのもありうるけど、それは私の考えでは美しくない。
本人は満足なんだろうけど、外から見ればただの思い上がり。
オバサンのヒステリーみたいに見える。
・・・待てよ。
もしいい年してナルシストで、本人はいまだ青春中と思っていても、
外から見ればそうは見えない(青春過ぎたナルシストに見える)ことがあるってことか。

となると、やっぱり青春するには年齢制限があるってことか?

そういや、太宰を嫌う人もいる。
そういう人は、恥ずかしげもなく一生を青春に捧げた姿が癪に障るのかもしれない。

となると、
人に「青春過ぎたナルシスト」と思われても気にせず、
「私は青春中、私は美しい」と思えるエネルギーがあれば、
その人は永遠に青春していることになるのかもしれない。
一人納得。

つまり、 私はかつてナルシストだった。
自分は美しいと思っていた。
それができなくなった。
歳相応に他人からの評価が欲しくなってそれが思うように得られず、
一人「私は美しい」と思い込むエネルギーがなくなった。
それが、青春の終わり、ということだ。

だから、
> 虎子さんの「(美しくない)私」には何が残っているのでしょうか?
> 存在。だけ?
に答えるとすると、
「もともと存在だけだったところに「美しい」という意味を付与できていたのが、
それができなくなって存在だけに戻った」
ということになるでしょうか。
   
  2005-04-14  茜から虎子へ

>さて、茜のこの前の元気っぷりを見て、
>学校あっての青春、とかいう前提を云々するのはあんまり意味ない、と思った。
>私だって社会人になってからも青春できてた時があったし。
>茜自身も今が青春! と認識しているようだし。
>青春を定義する外的要件はない、己の認識如何で決まる、が結論かな。
学校は行かなくても青春は送れる。
ただ、私の青春は世に溢れているものではない。と断言しておこう。
「K・茜の青春」だ。
まあ、各々の人はそうだけど。
私の青春に形容詞で例える必要もない。
「K・茜の青春」
固有名詞でいこう。


>私はもっと単純に「亡春」としてみた。
>青春を亡くしたその後の状態。感情は込めていない。
>失望も希望もない。
>ただの状態。
>それでいい。
ところで、青春というのを辞書で調べてみる、適当にヤフーでは「夢や希望に満ち活
力のみなぎる若い時代を、人生の春にたとえたもの。」
悪魔で、「人生の春にたとえたもの」らしい。
では、青春が終われば、人生の春は終わるのか。
簡単に世に言われるように春は思うに、誕生の季節だ。
そして泉は
「俺は中学生の頃考えたのは 春は夏の生まれる季節で、冬を殺す季節ってやつさ 
雪を溶かして、花を咲かせる季節」
と言っていた。
ところで、普通に考えて、青春という略は、「青い春」ではなく、「青少年の春」だ
ということはわかってらっしゃるだろう。
青春というのは上手い言葉ですね。
しかし、「ただの春ではない」といこと。
これについて深く研究していきたい。

>>「不幸は美しい」という定義がまだ私の中であるのです。
>その定義は私の中にもまだある。
>でも美しくない不幸というものもある。どうしようもない貧乏とか。
>あるいは不幸に酔うことができないということもある。
>今まさに結婚しようとしているときに、
>結婚相手と出会ってしまった不幸を述べることが難しい、とか(私のことだ)。
>そういう意味でも、美しい=青春から遠ざかる私。
そうまさに私がKさんとの別れを選んだときの青春とは、美しかっただろうか(あ
あ、思い出したら泣けてくる)
4月13日の私の日記に書いてあるような、求める愛と与えてあげたい愛と救ってあ
げたい愛に狂った私。
しかしこれは全て我侭な押し付ける愛だった。
しかし、あの時は、「不幸は美しい」という定義を全て否定し、
彼だけの生活を幸せだけを求め続けた。
もう一度質問します。
そう、まさに私がKさんとの別れを選んだときの青春とは、美しかっただろうか
(あーダメだ涙線弱すぎ)
ちなみに友人Rは「ばーーーか、あーーーほ、ぶす!」と言った。

>今、「美しい=青春」と書いたけど、
>私がここで言う「美しい」は青春しているかしていないか、
>言い換えれば、自分に酔うことができるか、ナルシストでいられるかどうか、
>ということだ。
なるほどね。

>一般的に美しさというのは、容姿とか、人格とか、他人が決めるものだと思う。
>でも青春中の美しさは本人が決めることができる。
>青春中の輝きというのは、私は青春してる、私は美しい、という自尊心が他人に影
>響して、
>外から見ても美しく見えてしまうもののように思える。
>若さの尊大なところに納得させられてしまうというのか。
>事実、茜はとても眩しい。
え、いや、そうかな?そんなことないよ?え、でも、そうだよ(ほらね。笑
しかし、わかりやすく書いてみる。
「青春だぜー!!」と叫んでいる若いヤツ。まあ、青春しいるように見える。
「私の春なんて終わった…」と嘆いてるヤツ。まあ、終わったんだなと思える。
が、青春している自覚のない人というのはどうだろう。
例えると、今の自分に必死で、「青春」という言葉にかまってられない人間だ。
そう13〜15の中学生の私は自分は青春なんてしていないと思っていた。
中一のはじめのときは、朝起きて、学校へ行って、人との距離に苦しみ、勉強をし、
帰り、ご飯を食べて寝る。
そんな怠慢な日々で、今の自分には何もなかった。
が、ある日、軽いシカトにあった。そうだ、いじめだ。
必至だった。学校へ行くたび鼓動がドキドキした。死にたいと思っていた。
リストカットを始めた。
14からクラス変えがあったら、いじめっ子とは一緒のクラスだったが、私は違うグ
ループに入り、喋ることを覚えたが、なおも心はすかすかだった。
そのころだったからだと思う、心の闇を描いたブラックノートを書き始めたのは。
15の頃は、自殺未遂。
もう何もかもが真っ暗だった。誰も救ってくれなかった。「青春してる」という余裕
なんてなかった。当時の私は。
しかし、あの頃もあの頃なりの青春だったと今振り返ればそう思うのだ。あの頃は
「自覚のない青春」だった。
しかし、その後は色々な人と出会い、挫折もあり、自分はまさに青春してる!という
感じだ。
「自覚のない青春」と「自覚のある青春」
これはなんだろうか。
人によって様々なのだろうか。
だから、「K・茜の青春」というのは、
13〜15の「自覚のない青春」と
16〜の「自覚のある青春」にわけられるのだ。
この違いは思うに、「生きてる感じがある、生きてない感じがある」の違いだと思
う。

>青春過ぎたナルシスト、ってのもありうるけど、それは私の考えでは美しくない。
>本人は満足なんだろうけど、外から見ればただの思い上がり。
>オバサンのヒステリーみたいに見える。
>・・・待てよ。
>もしいい年してナルシストで、本人はいまだ青春中と思っていても、
>外から見ればそうは見えない(青春過ぎたナルシストに見える)ことがあるってこ
>とか。
>となると、やっぱり青春するには年齢制限があるってことか?
私はロックンローラーのような人をいつでも青春しているような偏見があるが。
ぱっと、尾崎豊が思い浮かんだ。
彼はまさに青春を歌にしている。
そして、彼は、青春をしているうちに死んで言ったのではないか?
ねえ、虎子さんは、彼の原因不明の死をどう思う?
私はとても美しいと思う。そして悲しい。
あ、でも、彼は若いうちに死んだね。
南条あやの死でさえは、もう、彼女は、私にとってどうでもいい、興味ないって感じ
ですが(すげえ、失礼
でも、私はなんとなく、年齢制限があるというのは否定だ。
よく、「子供が自立した第二の青春を送ろう」なんて、オバサンが言うのを耳にす
る。
これをどう思いますか?

>そういや、太宰を嫌う人もいる。
>そういう人は、恥ずかしげもなく一生を青春に捧げた姿が癪に障るのかもしれない。
太宰を嫌う人は、あんな死に方をし、「人間失格」なんて本を書いたからのイメージ
が大きくて、嫌いという人が大半だと思う。
しかし、彼は青春をし、大人になった。
しかし、敗れた青春であり、寂しい大人になった。
でも、可愛らしい人なんだわ。芥川賞とりたくてもとれなくてぐずぐずしてたり(そ
こらへんが女性は好きなんだと思う)
第一、私はまず人が「人間失格」だけを読み、「太宰治が好き」なんていうやつはあ
まり好きではない。
興味をもつのが嬉しいが、彼は所謂、「自虐小説」ばかり書いてる人ではないのだ。

しかしにも、彼は悲しい生き方をしている。
しかし、その悲しい生き方のの不幸に酔って、幸せになっている太宰もいるのだと
思っている。
不幸と幸せは共鳴するのだ。
彼の青春について書いてある作品については、「乞食学生」という作品を読んで欲し
い。
ネットの青空文庫にでもあると思います。
そこでヴィヨンの言葉(文章論の宿題にも書いたけど)
「青春は空《くう》に過ぎず、しかして、
弱冠は、無知に過ぎず。」


>となると、
>人に「青春過ぎたナルシスト」と思われても気にせず、
>「私は青春中、私は美しい」と思えるエネルギーがあれば、
>その人は永遠に青春していることになるのかもしれない。
>一人納得。
私も納得。

>つまり、 私はかつてナルシストだった。
>自分は美しいと思っていた。
>それができなくなった。
>歳相応に他人からの評価が欲しくなってそれが思うように得られず、
>一人「私は美しい」と思い込むエネルギーがなくなった。
>それが、青春の終わり、ということだ。
えーーーーー絶望的ーーーーーー
この自信過剰な自分は(ええ、私はとても自信過剰)そんな結末が果たしてあるのだ
ろうか。
でも、それは、ああ、大人だなって思ってしまう。
ナルシストがそんなにいかんか。
誰だって自分が一番大好きじゃないか。
私の知らない世界だ。
ある人の台詞。
「大人になるって悲しいね。あんまり褒められなくなるんだよ」

>だから、
>>虎子さんの「(美しくない)私」には何が残っているのでしょうか?
>>存在。だけ?
>に答えるとすると、
>「もともと存在だけだったところに「美しい」という意味を付与できていたのが、
>それができなくなって存在だけに戻った」
>ということになるでしょうか。
そっかそっか。
それじゃあ、存在理由がない。
誰も私を見てくれない。
それを妥協して生きていくのか(ああ、なんで最近こんなに涙もろいんだ)

求めているだけ、青春時代。
溺れているだけ、思春期時代。

このメールのやり取りで大人になる悲しさがわかってきた。
事実、私はKさんとの別れで、ちょっと大人になっただろう。
でも、私は、
こんな形で大人になりたくなかった。
でも、避けては通れぬ道だな、と妥協している自分がいる(うあーーー

(今回のメールは4月13日の私の日記を参照していただくとよくわかる。と書いて
おこう)
   
  2005-04-27  虎子から茜へ

> ところで、青春というのを辞書で調べてみる、適当にヤフーでは「夢や希望に満ち活
> 力のみなぎる若い時代を、人生の春にたとえたもの。」
> 悪魔で、「人生の春にたとえたもの」らしい。
> では、青春が終われば、人生の春は終わるのか。
(中略)
> ところで、普通に考えて、青春という略は、「青い春」ではなく、「青少年の春」だ
> ということはわかってらっしゃるだろう。
> 青春というのは上手い言葉ですね。
> しかし、「ただの春ではない」といこと。
> これについて深く研究していきたい。

青春=青少年の春、なら、
青春が終わっても壮年の春とか老年の春とか、
様々に春はやってくるんじゃない?
だから青春の終わりが人生の春の終わりではない、ということになる。
ただそこには前提として、春というのは楽しいものという一般化されたイメージがある。
日本語には『人生の春』という言い方しかないから。
そんなに春はいいものかね。
春には春のよさが、夏には夏のよさがあって、というものだと私は思うけど。
春が最初の季節だから、若い時代を春に例えたと言われる方がありがたいよ。
私は夏が好きだからね。
もし将来楽しくてたまらない生活がやってきたら、
私はそれを人生の春とは呼ばず人生の夏と呼ぼう。


> 4月13日の私の日記に書いてあるような、求める愛と与えてあげたい愛と救ってあ
> げたい愛に狂った私。
> しかしこれは全て我侭な押し付ける愛だった。
椎名林檎の「正しい街」を思い出すね。
『なんて大それたことを夢見てしまったんだろう
 あんな傲慢な類の愛を押し付けたり』
(私にも「正しい街」の歌詞そのまんまの青春があった)

> しかし、あの時は、「不幸は美しい」という定義を全て否定し、
> 彼だけの生活を幸せだけを求め続けた。
でもそれすら、「美しさ」の中に取り込まれていたかもしれないよ。
「不幸は美しい」という定義を否定し彼との幸せを求めることが「美しい不幸」だったかもしれない。

> もう一度質問します。
> そう、まさに私がKさんとの別れを選んだときの青春とは、美しかっただろうか
> (あーダメだ涙線弱すぎ)
> ちなみに友人Rは「ばーーーか、あーーーほ、ぶす!」と言った。
Rちゃんは美しい不幸が嫌いなのかしらね。
私は、最高級に美しいと思ったよ。ホントホント。

別の視点から見れば、
茜が彼との別れを克明に書き、それを人が見た時点で、
それは始めて美しくなったともいえるだろう。
私の「美しい=青春」は、語られなければ美しくならない。
そして自己を饒舌に語るという行為はナルシストでなければできないこと。
誰にも語らず、一人美しいと思うだけなら、
その人にとってはそのことが美しくても他人にはその存在すら知られない。
存在すら知られていないのだから美しいも美しくないもない。
青春の美しさというのは結局自己申告制なんだね。

そこから考えて、
> 「自覚のない青春」と「自覚のある青春」
に話を持っていくと、
「自覚のない青春」はその時点では美しくなりようがない。
> もう何もかもが真っ暗だった。誰も救ってくれなかった。「青春してる」という余裕
> なんてなかった。当時の私は。
とあるように。でも、
> しかし、あの頃もあの頃なりの青春だったと今振り返ればそう思うのだ。あの頃は
> 「自覚のない青春」だった。
とあるように、あとになって考えてあれも青春だったと自覚すれば、
それは自覚した時点で青春になり、美しくもなる。
もし「自覚のない青春」を自覚のないまま終わるなら、
それは青春にはならない。

> 「自覚のない青春」と「自覚のある青春」
> これはなんだろうか。
> 人によって様々なのだろうか。

たぶんどんな人でも、過去を振り返ってあれは青春だった、と感じると思う。
「自覚のない青春」時代を、あとから自覚するだろう。
逆に現在がまさに青春と自覚できる人は意外と少ないかもしれない。
> この違いは思うに、「生きてる感じがある、生きてない感じがある」の違いだと思
> う。
自分を眺める余裕があるかないか、とも言える。
ナルシストかそうでないか、とも。


> 私はロックンローラーのような人をいつでも青春しているような偏見があるが。
> ぱっと、尾崎豊が思い浮かんだ。
> 彼はまさに青春を歌にしている。
> そして、彼は、青春をしているうちに死んで言ったのではないか?
> ねえ、虎子さんは、彼の原因不明の死をどう思う?
> 私はとても美しいと思う。そして悲しい。
> あ、でも、彼は若いうちに死んだね。
> 南条あやの死でさえは、もう、彼女は、私にとってどうでもいい、興味ないって感じ
> ですが(すげえ、失礼
私は尾崎豊の方が興味なし。好きじゃないから。
正確に言えば尾崎豊が好きだったクラスメートが嫌いだった。
尾崎豊が死んだとき、私は高2か高3だったけど、
そのクラスメートがその日学校に来なかったので、私は、
「きっと今頃後追い自殺してるよ」
と言いふらして冷ややかに笑ってた(わー楽しい楽しい)。
それより、
尾崎豊の死についてコメントを出した斉藤由貴(当時尾崎と付き合っていた)の方が、
青春してたと思う。
それはもちろん、コメントを出したから、つまり語ったから。
やっぱり私は青春と「語る」という行為が切り離せない。
何条あやも語っていたから、私はくやしいくらいに青春を感じる。

> でも、私はなんとなく、年齢制限があるというのは否定だ。
> よく、「子供が自立した第二の青春を送ろう」なんて、オバサンが言うのを耳にす
> る。
> これをどう思いますか?
私には、オバサンは語らないというイメージがあるな・・・。
青春しているオバサンは何を語るんだろう。
もし語ってもしみったれるような気がする。
でも、若けりゃその語りが全て青春と受け入れられるかということもないし・・・
見ていて腹の立つようなこともある。あまりにベタだったりするとね。
まあ何も私が認めた人だけが青春しているわけじゃないし、
どこかには共感してくれる人がいるんだろうから、
そういう人の青春も立派に青春だろうね、オバサンでも、気の合わない若者でも。


>>つまり、 私はかつてナルシストだった。
>>自分は美しいと思っていた。
>>それができなくなった。
>>歳相応に他人からの評価が欲しくなってそれが思うように得られず、
>>一人「私は美しい」と思い込むエネルギーがなくなった。
>>それが、青春の終わり、ということだ。
> えーーーーー絶望的ーーーーーー
そう、絶望的(苦笑)。

> この自信過剰な自分は(ええ、私はとても自信過剰)そんな結末が果たしてあるのだ
> ろうか。
意外とね、紙一重だよ。
自信過剰と自信喪失は。(また重い言葉を吐いてしもうた)

たぶん今の彼が、青春を語る私をどこか冷ややかに眺めている。
それで私は一気に萎縮してしまった気がする。
語ったあとに、それを喜んで聞いてくれる人がいないと自信がなくなる。
青春には「語り」と「聞き手」が必要なんだ、きっと。


そして最後に、
> ある人の台詞。
> 「大人になるって悲しいね。あんまり褒められなくなるんだよ」
その台詞の人に泣きながら拍手するよ。
まさにその通りだ!!!
   
  2005-08-29  久々に、茜から虎子へ

>青春=青少年の春、なら、
>青春が終わっても壮年の春とか老年の春とか、
>様々に春はやってくるんじゃない?
>だから青春の終わりが人生の春の終わりではない、ということになる。
>ただそこには前提として、春というのは楽しいものという一般化されたイメージがある。
そうすれば、ますます、青春という言葉の語源に謎があるような。
いや、でも、ただ単純に楽しいだけとかなのかな?
けれども、全然楽しいものではないし。
人によっては苦しいのだろう。
誰だ、青春を青春って名をつけたのは。中国の言葉かな?

>日本語には『人生の春』という言い方しかないから。
>そんなに春はいいものかね。
>春には春のよさが、夏には夏のよさがあって、というものだと私は思うけど。
>春が最初の季節だから、若い時代を春に例えたと言われる方がありがたいよ。
>私は夏が好きだからね。
>もし将来楽しくてたまらない生活がやってきたら、
>私はそれを人生の春とは呼ばず人生の夏と呼ぼう。
私もそう思う。
ちなみに私は秋が好き。そう、もう私の季節だ。笑。
ところで、虎子さんの大好きな三島の「春の雪」で、

「王子二人にとって、あるいは月光姫よりも、エメラルドの指輪よりも、友よりも、学校よりも、何よりも必要なのは『夏』だったのかもしれない、(後略)」

という台詞がありました。
意味深。


>>しかしこれは全て我侭な押し付ける愛だった。
>椎名林檎の「正しい街」を思い出すね。
>『なんて大それたことを夢見てしまったんだろう
> あんな傲慢な類の愛を押し付けたり』
>(私にも「正しい街」の歌詞そのまんまの青春があった)
その曲は私も好きだ。
林檎も思春期や青春について色々あったようだね。
『あの日飛び出した 此の街と君が正しかったのにね』
果たしてどうだろうか?本当に正しかったのでしょうか?
私は昔そう思ったけれど、今はそうは思わない。
これについては次の談義で。

私は長らく故郷を捨てるということについて考えていた。

>でもそれすら、「美しさ」の中に取り込まれていたかもしれないよ。
>「不幸は美しい」という定義を否定し彼との幸せを求めることが「美しい不幸」
だったかもしれない。
多分、普通の人は理解できないのかもしれない。
「不幸は美しい」ということは。
で、

>別の視点から見れば、
>茜が彼との別れを克明に書き、それを人が見た時点で、
>それは始めて美しくなったともいえるだろう。
>私の「美しい=青春」は、語られなければ美しくならない。
>そして自己を饒舌に語るという行為はナルシストでなければできないこと。
>誰にも語らず、一人美しいと思うだけなら、
>その人にとってはそのことが美しくても他人にはその存在すら知られない。
>存在すら知られていないのだから美しいも美しくないもない。
>青春の美しさというのは結局自己申告制なんだね。
おそらく、私はかなりの耽美主義なんですね。そして虎子さんも。
日本文学の話、谷崎潤一郎の部類に入るのかな。。わからんでもないけどれども。。

だから、もう自分の不幸に酔えなくなっても、
私やあなたみたいな人間(とくに作家などの芸術系の人は)は、「不幸は美しい」という思考は消せれないのですよ。よっぽどのことがない限り。
と、私はこれでいいと諦めた…
まあ、諦めるというより残しておいたほうがいいかな。と思いました。

>とあるように、あとになって考えてあれも青春だったと自覚すれば、
>それは自覚した時点で青春になり、美しくもなる。
>もし「自覚のない青春」を自覚のないまま終わるなら、
>それは青春にはならない。
なるほどー

>たぶんどんな人でも、過去を振り返ってあれは青春だった、と感じると思う。
>「自覚のない青春」時代を、あとから自覚するだろう。
>逆に現在がまさに青春と自覚できる人は意外と少ないかもしれない。
>>この違いは思うに、「生きてる感じがある、生きてない感じがある」の違いだと思う。
>自分を眺める余裕があるかないか、とも言える。
>ナルシストかそうでないか、とも。
そうですね。
で、

尾崎豊の話ですが、
嫌いって、みんな好きだったから嫌いなんですか?
これって、同世代のみんなと一緒になりたくない、しないで、みたいな思考。
私それはあります。
例えば、あゆとか嫌いなんですけど、
20年後彼女の曲を聴いていたら好きになるかもしれない(可能性は低すぎるし、あくまでたとえ話で

>それより、
>尾崎豊の死についてコメントを出した斉藤由貴(当時尾崎と付き合っていた)の方が、
>青春してたと思う。
>それはもちろん、コメントを出したから、つまり語ったから。
>やっぱり私は青春と「語る」という行為が切り離せない。
>何条あやも語っていたから、私はくやしいくらいに青春を感じる。
若いうちに親しい、愛する人が死んだ、という、「青春のうちの死の出会い」というのはもしかして、とてつもなくその人に、そんな経験がない人に影響を与えているのかもしれない。
実際、私はその経験をした二人、知人がいる。
一人は心から笑えなくなったと言っていた。
だから、私にも「青春のうちの死の出会い」にはあこがれるものがある。正直、それ系の妄想したりする。
恥ずかしい話、私は所謂自殺未遂のようなことをしたけれど、死ねなかった。
けれども、私自身はもう消してはならないのだ。ここまできたのだから。


>私には、オバサンは語らないというイメージがあるな・・・。
>青春しているオバサンは何を語るんだろう。
>もし語ってもしみったれるような気がする。
>でも、若けりゃその語りが全て青春と受け入れられるかということもないし・・・
>見ていて腹の立つようなこともある。あまりにベタだったりするとね。
>まあ何も私が認めた人だけが青春しているわけじゃないし、
>どこかには共感してくれる人がいるんだろうから、
>そういう人の青春も立派に青春だろうね、オバサンでも、気の合わない若者でも。
要は心の若さだと思います。
身体は普通の人は順調に二十歳を超えると老けていく。
それと共に、心も老けていく。
しかし、ここで、心の若さを保ていたら、
もしかしたら、その人は死ぬまでに青春しているかもしれません。

>意外とね、紙一重だよ。
>自信過剰と自信喪失は。(また重い言葉を吐いてしもうた)
なんとなくわかるかも。。

>たぶん今の彼が、青春を語る私をどこか冷ややかに眺めている。
>それで私は一気に萎縮してしまった気がする。
>語ったあとに、それを喜んで聞いてくれる人がいないと自信がなくなる。
>青春には「語り」と「聞き手」が必要なんだ、きっと。
孤独な人は、
きっと周りに「聞き手」がいない人は。
もしかして、死んでいくのかもしれません……

私は、虎子さんとこんなメールができて幸せです。

追記
そいうえば、文学者に自殺が多いと、久しぶりにネットの人とチャットをしていたのですが、
現代のトップの作家(とくに龍とか春樹とか)が、自殺でもしたら、
再び文学界に陰鬱な活気がでてくるのではないかと思った。それだけ。