青春売買ホテル
虎子

虎子の亡春回顧

 
2005-07-21     マリッジブルー


 連休を利用して遠い実家に彼を連れて行き、さらに遠い彼の家にも行った。
 これで婚約は完璧に成立。もうホテルの時代には戻れない。
 
 旅行の間、私は毎晩彼でない男の人の夢を見ていた。そこには、かつての男友達がかわるがわる出てきて、艶っぽい場面もそうでない場面もいろいろあったが、セックスに至ることが多かった。
 彼が横に寝ているのに毎晩。彼の実家にお泊りしている日も、この日は彼のお母さんの配慮で部屋は別だったが、同じだった。今日は一人だ、がまた誰かが夢に出てくるだろう。今度は誰が私の横にいるのか。
 
 そのことを彼に言うことができない。本当は夢の内容を、昔話も交えて面白おかしく話したい。思い出は美しく楽しい。だから私は昔語りをすると、彼と一緒の時間を過ごすときよりも幸せな顔になるらしい。それで彼はぷいと横を向く。まだ私達は過去をなんの軋みもなく話せる領域には達していない。
 
 こんな状態をマリッジブルーというのはふさわしくないだろう。実際ブルーではない。言うなればグレー。彼と結婚しようと野心を燃やし、それが適わず悶々とした日々の暗さを、結婚という文字を前にきれいに消し去ることはできず、だからといって真っ黒でもない、灰色。物語にもなりゃしない生活の色、グレー。
 
 昔の彼、アンガールズの山根に似てるんだよね、なんて笑い話を口の中で転がし、口には出さない。
 
2005-06-04     心変わり


 幸せも不幸せもなく、雨の日の猫のようにごろごろとぼんやりしている。
 どうでもいい。
 昔のことはもうどうでもいい。
 せっかくもう一度だけ昔のことを書こうと思ったのに、その気持ちも萎んできている。今さら蒸し返すことはない。このまま何もかも忘れていい人になろう、薄い笑顔を絶えず浮かべていられる無口な人になろう、そう思っている。
 
 そういえば、××さんが妊娠しているとわかったとき、冷静ではいられなかった私の横で彼は無感動だった。もうとっくに終わったことだと言い、全くショックを受けなかったと言った。私は彼の気持ちがわからなかったが、全て終わったあとの平静というのはきっとそんな風に何もないものなのだろうと、今になって少し理解した気がした。
 
 今日は昼間からミスドで本を丸一冊読み、気がつくと空が真っ暗になっていた。あわてて夕飯の買い物をして家に戻ると、近くの工事現場の交通整理のために家の駐車場の角に立っているおじさんが、雨合羽を着込もうとしているところだった。
 「降りそうですね」
 と声をかけ、アパートの階段を上り部屋に入ると、もう雨が降り出していた。
 
2005-05-14     全てが終わった時


 あれはいつのことか。今の彼が私の家に頻繁に出入りするようになって、それでもまだ付き合ってはいなかった頃。それが何年のことだったかを即座に言うことができない。1年前、2年前、3年前、と記憶を遡って確認してやっと、そう2002年、と思い出す。
 
 彼との関係が「深い仲の友人」であったその頃、私は彼と会うたびに、自分の過去の記憶や、数人いたボーイフレンドとの思い出を語っていた。先週は誰とどこに行った、昨日は誰と寝た、そんな話をする相手がいることが私は嬉しくて、次から次へと自分語りをしていた。でもそんなことが続いたあるとき、彼が「どうして他の男の話をする時、そんなに嬉しそうなのか」と嫉妬交じりに呟いた。そのとき私は、自分のしていたことがあまりよいことではなかったと反省し、以後そういったこと口にしなくなった。
 彼の遠まわしの忠告に過剰なまでに従ったのは、彼を自分のものにしたかったからだ。でも、自分語りができなくなったということは、私の一番の楽しみがなくなったということだった。
 自分語りは、聞き手がいないことには成立しない。でも、自分一人で物語を紡ぐことができないわけではない。私は、聞き手がいなくなっても自分一人の楽しみを暫くのあいだ続けることができた。でも、物語るエネルギーは、語り、それを受け止められることで生まれる。それが欠乏すれば、やがて物語を作ることすらできなくなるのだ。
 
 かつて私は「人は劇的に生きる権利がある」と思っていた。そして「劇的に生きる」ことが事実上不可能な平凡な人間は、平凡な生を「劇的に語る」ことで「劇的に生きる」ことが可能になると思っていた。
 でも「劇的に語る」ことでかろうじて「劇的に生きる」ことになっている生は、本来平凡なものであることは言うまでもない。自分語りをやめ、物語るエネルギーがなくなれば、自分が溺れていただけの「劇的な人生」の本来の姿が見えてくる。もちろん、そんなものはできることなら見たくなかった。でも見えてしまった。そしてその卑小さに恥を覚えるや否や、残りわずかのエネルギーも完全にかき消さた。
 私は、全てが終わった、と感じた。それが私の「青春」の終わりだった。
 
2005-05-05     未来の時間


 うすぐもりの空の色をした車を買った。
 それが私にとってどういう意味を持つのかを物語的に書くなら、その車に乗って過ごす未来の時間がちょっとだけ見えたということになるだろう。

 車を買うならその車に乗って過ごす未来の時間を想像して、それに合せて買いたいと思っていた私は、去年の段階で、車はおろか少しでも未来に関わるものを何一つ買うことができずにいた。想像される未来の時間がないのならまだましだったが、それはないのではなく見えないだけで、あるはずなのに見えなかった。
 見えなかったものは他でもない、彼と結婚するのかしないか、ということだった。夢や希望とは違う、ひどく現実的な白黒の問題だった。そしてそこから派生する、もし結婚するならいつか、どこに住むのか、今の仕事を続けるのか、続けるなら通勤は車か電車か、そういったことが、車を買うか買わないかというたかがもの一つの選択を左右していた。
 結婚しないなら今の生活が続くから壊れかけの車は新調したい。結婚して仕事を辞めるなら新車など贅沢品だ。仕事を続けるなら買ってもいいだろうが車通勤の圏内に住まないなら買う必要はない。そんな迷いの渦は止むことなく続いた。元が決まれば自然と導き出されるであろう答えが出ないまま、車は私の鬱屈の象徴となっていた。
 
 今、車を買ったのは、そういったことがきちんと決められたからではない。お買い得な車が目の前に現れて、それが未来の想像の背中を押したという感じだ。もっと具体的に言うなら、彼と新居のことを話していたときに、希望の車が入荷したと中古車ディーラーから電話があった。劇的な偶然。それらはもつれ合いながら、どちらが先ともなく、なんとなく決まっていった。実際いい車でまさに買い時、でも買ったら車通勤だね、という風に。
 
 うすぐもりの空の色は穏やかで、家庭の色だ。
 でもそれ以上に、私がその車を欲しいと思ったのは、これまでならまったく必要性を感じなかったバックモニターだった。私は、うすぐもりの空の色の車とバックモニターで、かつてなくリアルに未来を想像した。
 ・・・自分の子供が車の後ろの死角にいる。私はそれを知らずに車をバックしようとしている。でもそのときバックモニターに子供の姿が写る。私は間一髪で子供を轢き殺さずにすむ・・・
 そうやって私はちょっと行き過ぎのおかしな想像で自分の未来を縛った。
 
 
 私は、そう遠くないうちに結婚するだろう。
 私の定義では、結婚は幸福でも不幸でもない。「生活」の始まりである。
 
 さらに私の定義では、「青春」のあとに続く時代が「生活」である。
 理想は「青春」の終わりが、なだらかに「生活」の始まりに続くことだが、不幸にして私は「青春」と「生活」の間に深い谷があった。
 
 私はこれから、その時代を遡って書いていく。
 (現在のことを書くのは今日だけ)
 
2005-04-21     虎子


 私のサイフの中に、小さい焼きものの虎が入っている。ずっとずっと昔、今の彼と私が大学生でごく普通の先輩と後輩の関係だった頃、買ってもらったものだ。その虎は、研究室の忘年会で飲みに出かけた繁華街で、二次会か三次会の席が空くまでの暇つぶしに眺めていた店で見つけた。人にものをねだったことのない私だったが、そのときは普通に買ってと言えていた。それほど彼との友情は自然で親密だったということだ。
 
 なぜ虎だったか。それは寅年生まれの虎子だからである。