|
茜 茜の青春実況〜カコログ
|
|
2005-01
02
03
04
05
06
07
summer vacation
09
10 2006-01 02 03 04 |
|
■2006-02-18
思ったことつらつら 「神さま、神さま、御手はあまりに遠い」 中学友人Mと結構長いことメッセをしていた。 色々な結論。 ・私はSかもしれない。 ・ほんわか系の愛は無理。 ・中学生お互い痛かった。 ・(ってか)女子校って怖い。 「頭半分メルヘンだけど、半分世界戦争みたいなの!(意味不明)」って打ったら 「意味不明だけど、わかるw」ときた。 中学時代の話を最近するのだが、自分の記憶頼りではどうしようも思い出せない部分があって、語らえる人はうれしい。 *+*+*+* 東京の友人からの長文メール。 ホントに、男女の付き合いってなんだろうか、と思ってしまう。 価値観のぶつけ合い。 若いからかな、と思ってしまう。 私はどうだろう。相手に理解は求めない。ただ一緒にいてくれればいい。それだけだ。 私を見てくれればいい。 *+*+*+* 某サイトで、知った熱い文学青年。 彼はクリスチャン。 メールをちょこっとやり取りしていたら、一度こんなメールがきた。 「今夜、僕はあなたのために祈ります」 どうして見ず知らずの人が、私なんかに祈ってくれるのかしら?と思いつつも、そんな優しさはうけたことがなかった。 祈りというのは、優しさだろうか? とりあえず、「祈りというのが、神に届くのではなく、その人に直接届いたらいいことなのにね」と打ってみた。 信仰という情熱。 信仰への不可侵。 それによる葛藤。 宗教というのは、ある意味、芸術性が高いよなってたまに思う。深い意味もなく。 ああ、「ヴィロンの妻」の一節を思い出した。 今夜ちょっと読み返そう。 「神様がいるなら出て来て下さい!」 |
|
■2006-02-18
エクリチュールの旅 どいつもこいつもアホな文章書きやがって! と、最近ブログの旅をしていて思う。 その私の中で、アホや馬鹿加減というのは結構幅広い範囲である。 もはや、色んな人が物書き気取り。 異様なため息がつくのだ。 文藝春秋3月号の芥川賞の石原慎太郎氏の選評には、 「携帯電話のメールやインターネットの普及で現代人の若者の活字離れが文学を通されて関係をもってきたというのは、はたしてそうか?そうとは思わない。 IT時代の文学は、今日氾濫しすぎた情報の中から素材を拾い見つけるという繁雑な作業にわずわられ、いい換えれば目先の風俗の小道具に目をくらませて、本質的な主題の獲得発見が疎外されている」 妙に納得。 そして、絲山秋子「沖で待つ」はなかなか面白かった。 プルースト「失われた時を求めて」を読書中。 なんとも言えない、美しい世界。 海外古典の長編を読むのは、ドストエフスキー「罪と罰」以来で、それの何倍もの長さで、「源氏物語」以上ある。 (買った理由は、ただ、予備校のとき、授業を抜け出して、ストレス解消にと買ったみただけ) ネット上での評論を見てみたくて、検索をしてみたら。 「ページを開くと、マドレーヌが待ってます!」というキャッチコピーがでた。 こうゆう読者って好きだなぁ。 フランス文学に欠かせない、エクリチュールという言葉。 ただ訳せば、「文字、書いたもの、本」となるが、恐らく日本の「侘び寂び」のような感覚なのだろうか。 見た目は活字だけれども、それが綴られていくことによってものすごい明晰な世界が生まれる。 「まず闇を受け入れることです。森の闇。エクリチュールを帯同し、エクリチュールを連れてその闇を通り、その行程が続くあいだずっと闇の恐怖に耐え、それから書くのです。 (中略)エクリチュールが生まれるためのあの喜び…私にわかるのはその喜び……」 デュラスの資料集より。 その資料集には、彼女は幼年期からエクリチュールが何かを知っていた、と書かれている。 流石に、「愛人」のような、一人称やら三人称をごっちゃにして、未完成のような完成を思わせる文章というのは、デュラスならでわだろう。 今まで文章で陶酔させられたのは、太宰、三島だ。 三島の「金閣寺」や「仮面の告白」なんて当時読んだ時、眩暈がした。 多分、私ってクレイジーなんだろうな、とよく思う。 詩だと、萩原朔太郎が最近好き。 エクリチュールの旅。 文章教室がついに来週の火曜で終わる。 そこで、一度ハードディスクが壊れて、データがとんだ私に、カーネルサンダース先生が今期の資料集を送ってくれた。 私の一年の姿がそこにあった。 18の私。 何かを掴んだような私。 人間、というよりも、なにか物書きとして「私なりの大切」を掴んだ私。 文章教室には、来年からはもう行かない。 私は大学生になるから。 書ければ水を得た魚のように、私らしさが存在する。 物書きをしている私は、なんでもない「ただの文字を綴る人」として存在し、 文章上の私の綴られたものは私の子供のようだ。 それは時々、こちらをはっとさせる。 今までの作品で一番好きな作品。 9・20 トワイライト その日、期待していた雨は降らなかった。 六月十九日は毎年雨が降るというものらしい。あの男はやはり雨に濡れるのが好きなのだろう。ひんやりと、心地よい、そしてしっとりとした雨が好きなのだろう。やさしい女の愛情のような。だから私は墓の前で、冷たいお水をかけてあげた。 こんなに墓参者に見舞われ、幸せ者だね。と。 三鷹から、友人たちが集う上野へ向かう。都内の電車の窓から斜陽が私を刺した。 《かなしい、かなしい恋の成就。 (中略) 「私、いま幸せよ。四方の壁から嘆きの声が聞こえ来ても、私のいまの幸福感は、飽和点よ。くしゃみがでるくらい幸せだわ」 上原さんは、ふふ、とお笑いになって 「でも、もう、おそいなあ。黄昏だ」 「朝ですわ」 弟の直治は、その朝に自殺していた。》 太宰治著・「斜陽」のワンシーンである。十五のとき読んだ。落ちぶれていく貴族の家族の中に、恋と革命に生きようとする主人公・かず子に感嘆した。その頃の私など、恋がどんなものかもよく知らず、自己の革命もする間もなく、日々怠慢に鬱蒼に生きていた。けれども、何度も何度もその本のページを開き、かず子の言葉を頭に入れた。 こんな女になりたい。こんな女になりたい。 けれども、その言葉は、太宰治によって綴られた、恐らく彼にとっての理想の女だと気づくのは今頃になってからだった。 なりより斜陽は明るく美しい。一日の終わりの最後の光だ。そして誰もの人生にも何度も斜陽は刺すものだろう。私の今まで生きてきた道にも。 それは、希望の光か、終わりの光か、否か。なにか。 突然、私が斜陽に包まれたとき、一人の影を見る。そして、私はこう呟くのだろう。 「誰そ、彼は」 《けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。》 「太宰治が現代に生きていて、こんな私と出会ったらどうなっていだろうな」 と言い。しばらく考えて、私は「絶対破滅の道だ」と呟く。すると、目の前にいたKさんが煙草を吸いながら苦笑した。 春が近い。 19になるまで、終えなければならない仕事――片付けられなければならないこと――書くべきことがあるのだ。 昨日、父に、「入学金をお願いします」と頼んだ。 春になれば、大学生だ。 美大生なのか。14の自分が想像していただろうか、美大生の自分を。 まったく人生とはままならぬものですね。 |
|
■2006-02-11(+12)
新しいページを 「ずっと一緒にいるよ」 私は、龍の顔を見た。 それから龍は 「多分ね」と言う。 「リアルね」と私は言う。 そうゆうところがとても好き。 *+*+*+* 昨夜寝ぼけてて、すっごいだらだらした長い文章書いてアップしまったので、今消した。 あれは、ただの愚痴だ。 あの後、気がついたらリビングのこたつで寝ていた。 夜明け前、我に帰ると、自分のベッドに戻った。 |
|
■2005-02-05
かくれんぼ 試験が終わった。 感覚的には、やっつけ仕事、のような感覚。 それでも、すっきりしないのは、「学生に逆戻り」という感覚だった。 大学は以外にも小さなものだった。 大きければいいものではない。 その存在は学校だからだ。 閉鎖された教室の中で私は淡々と授業を受けるだろう。 好きな授業を受けるからそれはいい。 また私は、眠いときは眠るだろう。窓辺の席で。 授業を受けないときは受けないだろう。出席日数の間に合うように。 試験を終えれば、何もすることはなかった。 私はまた家に戻り、結果を待つだけだろう。 合否が問題じゃない。 落ちれば、私はまた、学生でもない、何者でもない人になれる。 家庭。 また、父の様子を伺う日々が何年も続く。 父はあまり私を怒鳴らない。もう手をあげたりしない。私のものを壊したりしない。 勉強はしたい。 ただ学生という身分になるつれ、私はその身分がうっとうしくなる。 どうせ、職についたって同じだろう。私は私でいたのだ。すごい勝手なエゴ。 遊びたいわけでもない。 欲を言えば、セレブティな人になりたいが、実はそうでもない。 どうしたいのか、ただ、家にいたくない。留まりたくない。私は此処にいたくない。 春が近づくと、いつもそんな感覚を覚える。 愛すべき退屈な、平凡な日々を壊したくなる。 春先に憂鬱になることは、人間の身体上そうなるケースが多いらしいが、最も私… 周囲のペースがどんどん速くなる。そして私はそれより早くなろうとする。悪循環が起こる。 ホントは、私、一人で遠くに行きたかった。 父のいないところへ行きたかった。 ただ、それだけだった。 大学のパンフレットを見ていたら、泣きそうになった。 |